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イイムロがいく おしかけ職場探訪Vol.1[Hikaruさん第2話]

高校卒業後に長野から上京し、料理と雑誌の世界に飛び込んだHikaruさん。フリーランスとして紙媒体での仕事を始め、その後に出産、そして家族で長野へ帰郷。生活環境が変わるなかで、料理という軸はそのままに緩やかに活動の場を変化させます。20代、30代、40代と歳を重ねるなかで変化してきた思考を丁寧にお話いただきました。Biotope紙面では紹介しきれなかったロングインタビュー、Web版として全3回に分けて公開です。

Hikaru
長野出身。料理家。書籍、雑誌、広告などで活躍をし、2016年帰郷。「香りの会」(ギャラリー夏至)、「月にいちどの旅するような料理教室店」(ナノグラフィカ )、「Fall in herb, Fall in spice」(tokiori)など催す。著書『Hikaruさんちのゆったりとおもてなし』(祥伝社)他

第2話:『母になった30代』

飯室(以下、飯):20代は精力的に仕事をされた日々でしたが、20代最後の年に妊娠されました。生活はどう変化していったのでしょう。

Hikaru(以下、H): 時として、流れを変えなければならない局面もあるとは思いますが、お腹に小さな命を感じると、ただそれだけで力が湧いてきました。出産予定の2ヶ月ほど前、郊外の一軒家に越しました。お散歩したり、会いたい人たちに会ったり、陣痛を想像し不安でいっぱいになる夜があったり。自宅の庭で借景のリスの森を眺めながら食事をしたり、家の中でゆったり過ごす時間も増え、数ヶ月はあっという間だったと思います。

飯:妊娠すると、生活全体を仕事から母業へシフトチェンジする必要があると思います。私の場合は、夕方から朝にかけてお客様を受け入れる宿業ですので母業と両立が難しい。自分が毎日現場に立ち続けずとも宿を継続できる仕組みを考える日々でした。Hikaruさんの生活のシフトチェンジはスムースでしたか?

H:私の場合は、妊娠4ヶ月頃に身体に不調が出ました。症状は目に見えるものの、検査の数値には現れなかったため、お医者様を頼れず。夫が本を片手に食養生を試みてくれました。次第に苦しさから解放され、2週間あまりで心身ともにすっきりと回復しました。食と手当ての2人3脚の日々を経て、「妊婦生活を満喫したい」と思いました。それからです。仕事はお約束していました撮影まで、と決めました。

飯:産後はいつ頃から復帰されたのでしょう?

H:産後1ヶ月過ぎたあたりから取材を受けたり、声をかけていただけたのもあって仕事を再開しました。撮影当日は何があってもよいようにできるだけ前日までに準備を終わらせて。母乳で育てていたので、自宅で休憩をいただきながら撮影しました。スタッフの方々や家族の協力があったからこそできたと思います。

飯:旦那さんの行う食養生や、周囲の協力というのは、初めて母になる身としては力強いですね。そうは言っても小さな娘さんと一緒の仕事は思うようにならないこともあると思うのですが、それがうまくいった要因は他にもあったのでしょうか?

H:娘が1歳半の頃、娘と一緒に料理をする連載のお話をいただいたんです。初めての連載は感じていたことをそのままに「毎日がとくべつ」と名付けました。いただいた連載が新たな連載に繋がり、料理誌では詩のような物語を描いていただき、料理やお菓子を担当するページをいただいたり。子育て誌では、時季の食を中心に、子どもとの生活や私の視点を題材とし、毎月毎号紡いでゆきました。当時、自身のウェブサイト内で写真とともにダイアリーを綴っていたことで編集者が写真も自身で撮ってみることをご提案して下さいました。撮ることは好きでしたが、雑誌でまとまったページを担うのは初めてでした。自身の連載で、撮影の対象が自身の娘だったからできたと思います。

飯:替えがきかない、Hikaruさんにしかできない仕事。そういうアプローチは嬉しいですね。我々のような宿業でも「安いから」や「立地がいいから」という予約もありがたいですが、やはり「ここに泊まりたいから」と予約していただく方が俄然やる気が出ます。写真もご自身で、とのことですが、カメラのフィルター越しにみる我が子というのは、直に見るのとは違うものですか?

H:フィルターを通すと娘のことを冷静で見られましたね。彼女らしい動きや表情を見逃さないように成長を写しました。長きに渡り、目の前の娘だけを見て、のびのび書かせていただけたことに感謝をしています。

飯:Hikaruさんの場合、仕事と子育てが補完し合って、一層よい状態になったように感じます。

H:皆さんも得意な分野をお持ちだと思います。私は食や暮らし周りのことは生業にもしていますが、どうすれば家事を娘と一緒にできるか考えていました。娘と過ごすことがこんなにも愉しいとは、と。娘も一緒の撮影の場合は、打ち合わせや試食のときも、共にテーブルについていました。

飯:事務的な仕事や集中しないと進まない作業はどうされていましたか?

H:絵本を3冊読んだら灯を消し、夜8時には一緒に寝てしまっていたので、朝は2時に起きていました。夏の朝4時といえば、娘は陽とともに嬉しそうに起きてきたりするので、そういう時は私のデスクと向かい合わせに娘用のテーブルと椅子を用意して、お互いのスペースを保っていました。娘がテーブルに絵本をいっぱい積んで、楽しそうなのが何よりでしたけれど。タイアップ企画や広告撮影などは都内のスタジオで行いました。そういった日は保育園からの着信があってもすぐにお迎えに行けないので、夫が休みを取って娘を里山や海、美術館に連れて行ってくれたり、一緒にご飯を作って食べたり。そんな様子をムービーで報告してくれましたので、安心して仕事ができました。

飯:私はゲストハウスという宿の特製上、学生など一人旅の若者と接することが多かったのですが、親になって知らない世界を目の当たりにしました。Hikaruさんの思考に変化はありましたか?

H:外に出かける時にはおにぎりやサンドウィッチを持ってピクニックをすることが多かったのですが、他の家族とも共有ができないかなと思うようになり、すぐに友人のアーティストに声をかけて自宅で『こどものアトリエ、大人のアトリエ』を始めました。子どもたちはアーティストと絵を描いたり、創作する時間を。その間、親はみんなのお昼ご飯を作る。みんなでご飯を食べて、片付ける。そんな会を月に一度行っていました。年齢も様々で、普段はそれぞれが違う場所に通っていますが、月に一度会い、手を動かしながら子どもたちの成長を見れたのはとても幸せで学びの時間であり、私にとっても心通える場所となりました。

飯:自分と自分の子の一対一で過ごすと煮詰まる部分もあると思うのですが、そこに第三者が関わってくれることで心が救われる部分があるように思います。

H:娘が小学校に通うようになり、また少しペースなどを変えなければならない時期が訪れました。入学式の後、早々にうちの娘に大事だなと思ったのは、「塾よりもおやつ」でした。「6年間おやつをちゃんと用意しよう」と心に決めたほど。小学校での初めての夏休みを終えた頃、我が家へ自力で来れるお子さんを対象に、毎週1回『おやつのじかん』という、娘も含めた少人数でおやつを作って食べる教室を開きました。レシピは年齢に応じて、ひらがなに漢字を混ぜていったり。子どもたちとの時間がその後、教室を始めてみようと思ったきっかけになりました。

(続きます)

1166バックパッカーズ

飯室 織絵

兵庫県出身。2010年に長野市にてゲストハウス・1166バックパッカーズ開業。ガイドブックの情報ではものたりない旅人と地元のひとを緩やかに繋ぐパイプ役を目指す。日々旅人の話を聞かせてもらうなかで聞き・書きにも興味を持つ。

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