イイムロがいく おしかけ職場探訪Vol.4 [石黒ちとせさん 第2話]
「事業は継がない!」と断言していたものの、前社長の病気をきっかけに40歳を目前に家業を継ぐ決心をした石黒ちとせさん。地元企業から厚い信頼を受ける看板製作会社アドイシグロの創業者の孫として生まれ、家業を継承して15年が経つちとせさんに、ゆっくりじっくりと心の移り変わりを振り返ってもらいました。Biotope紙面では紹介しきれなかったロングインタビュー、Web版として全3回に分けて公開です。
石黒ちとせ
長野市出身。異分野の職を転々とした後、2006年に家業であった看板製作会社・アドイシグロの社長に就任。親子では3代目、人数では4代目となる。社屋隣の築40余年、鉄筋コンクリート6階建ての公団型共同住宅・光ハイツの管理も行う。睡眠、長距離移動、中国旅行が好き。
第2話:『やりたくなかった家業を継承した』
飯室(以下、飯):大学を卒業してからの20代は、新聞社、塾の先生、日本語教師と、職歴を重ねられました。
ちとせ(以下、ち):日本語教師として働き出す前に、日本語教師の勉強をするわけなんだけれど、そのときに勉強した中国語のクラスの先生がすっごいおもしろくって。
飯:ほうほう。
ち:学生時代の英語の授業って、まずは文法から入ってたでしょ。でも中国語の授業では、始めに発音を徹底的に叩き込まれた。たぶん日本人の先生だったら「”ア”と”エ”の中間音です」って教えるところを、その中国人の先生は、”ヴ〜” みたいな変な音を出して、「これは中間音ではありません、”ヴ〜” です」みたいに教えて。そういうのがすごくおもしろかった。
飯:中国人からしたら、「中間音ではなく、あくまでも”ヴ〜” だ」っていうことなんですね。クラスのみんなで、”ヴ〜” って言っている姿を想像すると、おもしろいです。
ち:そう、日本人に合わせようっていうのが一切なくっておもしろかった。そこからは定期的に中国に語学留学に行ってた。29歳から始まって、5年くらいは毎年。後半は家の仕事も手伝ってたんだけれど、「中国に半年行ってきます!」みたいに。2000年になってから行ってないから、発展した中国を知らないんだよね。今も行きたいんだけれど、コロナっていうのもあって、どんどん行けなくなっちゃうね。
飯:なるほど、そのあたりでアドイシグロさんに就職のような感じになるんですね。そのころ家業を継ぐ心づもりはあったんでしょうか?
ち:継ぐつもりは全くなかった。
飯:言い切りますね…。
ち:父親は、早いんだけれど60歳で引退していて、そのあとを頼んだ社長さんがいたの。その頃、父親は私のことを、あわよくば社長を助ける役職に…と目論んでいたらしい。でも、「絶対やらないからっ!」って言ってた。
飯:絶対やらない、ですか(笑)
ち:事務的なこととか、お給料計算だとか資料作りとかは手伝うけれど、経営に関わることはしないから、って。
飯:ところが、継いじゃいました。
ち:その父親のあとに社長になった人が病気になっちゃったの。社長になって7、8年経ったころかな、長野オリンピック後の転落するみたいな売り上げのなかで。世の中的には落ちるしかない時代だから、かなり心労だったと思う。
飯:その時、ちとせさんは近くで見ていたんですよね。
ち:そうそう、それを見ていて、社長やるよって言ったの。一番の理由は病気になっても会社に来て頑張ろうとしている当時の社長を見ていられなかったから。それに当時 私は家庭があるわけでもないし、39才でふらふらしていたの。継ぐのが嫌だって断ったのはいいけど、何ひとつやっているわけでもなかった。
飯:継ぐ決心をされたとき、お父さんはどんな反応だったんでしょう?
ち:3ヶ月くらいは悩んでた。ただ、話の方向性としては、実は事業をたたむ前提だった。私としては会社経営をやりたいっていう気持ちではなかったし、事業を終えるんだったら親族の私の方がいいでしょう、と。
飯:お父さん、本気でたたむ気だったんでしょうか?
ち:「看板屋とか商売っていうものはひとつの山があって いつか終わっていくものだから、終わっていくときにはたためばいい」、そんな口ぶりだった。それに、みんなが築いてきた組織に私は遠慮なく入っていける性格っていうのもあって。
飯:お父さんの言葉、深いですね…
ち:でもそのうちに、「言うのは簡単だけれど実際にたたむのは意外と難しいぞ」、なんて父親が言い出して。
私としても、今ここで働いている人たちもいるし、長年営業しているのでうちがなくなったら困るっていうお客さんたちもいるから、続け出したって感じ。
飯:それで気づけば15年。
ち:それまで就職しても仕事が続かなかったのは、管理されているのが嫌いだったからなのかもしれない。職種の問題もあったとは思うけれど、納得できないことが起こったときに黙って我慢できるタイプではなかったから。
飯:なるほど。社長になって、ある種、管理する側になって、どういう戦略を立てられたんでしょう。
ち:前の社長は営業畑の人だったので、価格を下げることを重要視していて…
飯:「良く、早く、安く」がモットーだった時代ですね。
ち:そうそう。そのモットーを「良く、早く、面白く」に変えた。「安くしてっていう人とは仕事しない! 」そのくらいの気持ちで。
(続きます)
1166バックパッカーズ
飯室 織絵
兵庫県出身。2010年に長野市にてゲストハウス・1166バックパッカーズ開業。ガイドブックの情報ではものたりない旅人と地元のひとを緩やかに繋ぐパイプ役を目指す。日々旅人の話を聞かせてもらうなかで聞き・書きにも興味を持つ。