イイムロがいく おしかけ職場探訪Vol.4 [石黒ちとせさん 第1話]
大学卒業後に新聞社勤務、塾の先生、日本語教師と転職を重ねるも、どの仕事も長続きしなかった20代。地元企業から厚い信頼を受ける看板製作会社アドイシグロの創業者の孫として生まれ、家業を継承して15年が経つ社長の石黒ちとせさんに、ゆっくりじっくりと20代を振り返ってもらいました。Biotope紙面では紹介しきれなかったロングインタビュー、Web版として全3回に分けて公開です。
石黒ちとせ
長野市出身。異分野の職を転々とした後、2006年に家業であった看板製作会社・アドイシグロの社長に就任。親子では3代目、人数では4代目となる。社屋隣の築40余年、鉄筋コンクリート6階建ての公団型共同住宅・光ハイツの管理も行う。睡眠、長距離移動、中国旅行が好き。
第1話:『家業を継ぐ前の20代、仕事が続かなかった』
飯室(以下、飯):これまでBiotopeのインタビューでは4名の女性からお話をうかがってきましたが、みなさん基本的にひとりでご商売をされているかたちでした。今回は初めて、企業の社長さんにお話をうかがいます。ちとせさん、今日はよろしくお願いします。
ちとせ(以下、ち):よろしくお願いします。
飯:ちとせさんは長野市の看板製作会社・アドイシグロの社長さんであるわけですが、創業されたのは、おじいさんの石黒光位(みつい)さんですよね。
ち:そうそう。おじいちゃん。
飯:アドイシグロや社屋隣に建つアパート・光ハイツの公式ウェブサイトには会社の生い立ちが詳細に書かれていて、読むのが楽しかったです。
ち:筆まめな社員が頑張って書いてくれてるんだよね。私も普段はあんまり書かないんだけれども、光ハイツの方は一生懸命考えて書いたの。
飯:ウェブサイトによるとおじいさんの光位さんは昭和3年に権堂町で精光舎石黒看板店を創業。寝る間も惜しんで看板を書き続けるうち、「ペンキで看板を描くなら塗装もできないか」と頼まれるようになり、当時は建築塗装の請負もするようになった、と。
ち:そうそう。おじいちゃんは、「東劇」という映画館の経営も始めたの。映画自体に興味があったわけではなかったけれど、映画の看板を納めたいがために映画館を建てちゃったんだよね。
飯:看板を作りたいから映画館を創業。すごい意欲です。それが昭和30年のことですね。
ち:そう。映画の看板っていうのは、職人がポスターの原画を見ながら、フリーハンドで仕上げていくんだけれど、東劇では映画を3本立てとかでたくさん上映していたので、看板もたくさん描いてたみたい。でも映画が下火になってきて20年くらいで閉館したの。
飯:その跡地に、鉄筋コンクリート造6階建ての公団型共同住宅・光ハイツが建つんですね。
ち:そうそう、光ハイツが建ったのは父親が会社を継承してからで、昭和53年のこと。わりとふたりとも新しい物好きなんだよね。
飯:ちとせさんにとっては、生まれたときには東劇はもう存在していて、小学生のころに東劇が閉館したり、跡地に光ハイツが建ったりしていくわけですが、当時の記憶はありますか?
ち:ところが全然ないんだよね。会社が今の東鶴賀町に移る前は自宅も会社も上千歳町にあった。上千歳町に長野大通りが開通するのがきっかけになって会社が引っ越し。小学校高学年のころかな、ひとりで上千歳町の家から東鶴賀町の会社まで自転車乗ってきて、この近くの耳鼻科に通ってたのは覚えてるけれど。
飯:ちとせさんは、生まれてから高校生まで長野市で暮らされていたんですよね。
ち:そう。それで、大学は東京に。本当は修学旅行で行ったことがあった関西の方が空気が合う気がして、関西の大学をたくさん受けてたんだけれど、東京の大学がたまたま受かって、しぶしぶ東京に。
飯:どんな勉強をされていたんですか?やっぱり経営学とかでしょうか?
ち:高校の途中まで学校の先生になろうと思って教育学部を目指していたの。でも途中で何か違うなって思って。そんなときに先生に経済学部勧められて、じゃぁそうしますって。
飯:学校の先生を目指されていたんですね。てっきり初めから会社を継ぐつもりだったのかと…。初の就職は東京だったんですか?
ち:いや、大学卒業して、長野の会社に就職してるの。三人姉妹の長女だから、こう…古い縮図みたいなものがあって、当時は早く婿とれとか言われてた。おじいちゃんは創業者だし、母親も商人の家に育った人だから、二人のなかでサクセスストーリーがあったんでしょうね。
飯:大学卒業したばかりでまだ若いのに、もう婿の話でしたか。娘に継がせるというよりも、結婚してお婿さんに継がせるというストーリーだったんですね。
ち:最初に勤めたのは新聞社で、そこを辞めたあとは塾の先生。でも塾の先生って夜の仕事なんだよね。お昼頃に出勤して、夜遅くまで仕事する。土曜日も仕事だったから、友だちと会ったりもできなくなって。まだ20代だったし、遊びたかったんだよね。それで昼間に教えられる仕事はないかなって探していたら、日本語教師っていう職業と出会って。
飯:やっぱり学校の先生みたいなところが性に合っていたんですかね。
ち:でも日中に働きたいと思って始めた日本語教師も、やってみると大変だった。夜は自分自身の勉強で遊べないし、寝不足も苦手だからもう無理だって。
飯:20代のうちに新聞社、塾、日本語教師といろいろ経験しましたね。
ち:その当時の考え方だったら「転職しすぎだろう」って思われるよね。自分でも続かないな〜って思ってた。
(続きます)
1166バックパッカーズ
飯室 織絵
兵庫県出身。2010年に長野市にてゲストハウス・1166バックパッカーズ開業。ガイドブックの情報ではものたりない旅人と地元のひとを緩やかに繋ぐパイプ役を目指す。日々旅人の話を聞かせてもらうなかで聞き・書きにも興味を持つ。